実はこの3日間、姑の葬儀日程を過ごしていました。
遺族それぞれの都合もあり、昨夜が通夜、今日が告別式、法要、納骨と済ませました。
私は予てよりの女川視察研修責任者としての役目、家族の理解のもと、「役目を果たしてきなさい」と送り出してもらい、昨日は日程を果たしてから、通夜に臨みました。
7月4日の未明、容態急変の報せを受けて駆け付けるも残念ながら、息を引き取っていました。
享年93歳。
大正、昭和、平成を生き、太平洋戦争の時には実家が仙台空港近くの相の釜地区、丁度、現在千年希望の丘・交流センターがあるエリアにありました。
年頃で野良作業をしている時に、米軍の空襲に遭い、畑を這って逃げた体験を息子に話していた、とも聞きました。
専業農家の家業、畑作、稲作、身を粉にして働き、いつもニコニコして、物静かな姑でした。
震災で自宅が大規模半壊、引っ越しての慣れぬ住まいでの不自由な暮らしの時期もありましたが、舅と二人揃って、余生を過ごせたのは幸せなことだったのかもしれません。
介護施設の職員皆さんにも手厚いお世話を受けたこと、感謝が絶えません。
そして、姑が生き抜いた背中から、残された者に教えを残してくれたことに感謝です。
合掌